いつかまたコービーブライアントに会えるその日まで

”Hey! Kobe Bryant died!”

 

それはサウス・シェトランド諸島のキングジョージ島からクルーズ船に乗り込んで一服しているときだった。
同船していたベトナム系アメリカ人のシンディが興奮した様子で僕に告げる。

何かのジョークだろうと思った。コービーはつい前日、コートサイドで娘とレイカーズ戦を観戦していたし、今頃ドワイトとダンクコンテストでどんなダンクをするか相談し始めてるだろうし、と。

僕は船のWi-Fiに接続してTwitterを開き、NBAアカウントのタイムラインを覗いてみた。

 

「無理」「信じられない」「フェイクだよね?」「エイプリルフールじゃないの…?」

 

といった言葉が並んでいた。それでも僕は何が起きているのか全く理解できなかった。

「コービーが死んだ?あのコービーが?死んだ?」

頭が真っ白になった。情報を読み漁って辛うじて頭の中に入って来たのは、「ヘリコプターの墜落事故でコービーと同乗していた家族が死んだ」ということだけ。

僕はソファから立てなかった。あまりに重すぎる現実だった。
妻が横で慰めてくれていたが、この世の終わりのような喪失感に襲われていた。

 

 


 

中学時代

僕がコービーのことを初めて知ったのは、1999年のNBAファイナルをBSで見た時のことだ。
僕は当時中学生で、ちょうど3Pシュートの練習に集中していた時期だったので、その時はどちらかというとレジーミラーの3Pに心を奪われていたが、レイカーズではコービーに注目していた。

 

翌年はアイバーソンのMVPシーズンで、学校ではみんなアイバーソンの真似をしていたが、僕はコービーが好きだった。若いのに負けん気が強く、信じられない体制からシュートを決め、バスケの練習ではいつもコービーの真似をしていた。
練習試合でもあった日には、フェイダウェイ気味のミドルシュートを何本も打ち、コービーの勇姿と自分のプレイを重ねて、子供心ながら少しでもコービーに近づきたいと思っていた。

 

2002年のvsキングスは僕が今まで見て来たプレイオフシリーズの中でもベストバウトの一つだ。
ウェバー、ビビー、ディバッツ、クリスティー、ペジャと攻守にバランスのとれた相手にレイカーズは大苦戦。第七戦までもつれたシリーズはレイカーズに軍配が上がったが、この頃にはすっかりコービーの虜になっていた。2000年の頃とは比較にならないほど成長して、自信に満ち溢れ、信じられないシュートを何本も決めて何度もチームのピンチを救い、心の底から「かっこいい」と子供ながら感動していた。当時部活で主将だったこともあり、こんなプレーでチームを引っ張ってみたいという気持ちで、コービーは憧れそのものだった。

 

高校・浪人時代

高校に入ってからの3年間はバスケ部に入っていたが、ずっと補欠だった。
毎日吐くほど練習したが、怪我に苦しみ、結果後輩にもベンチの座を奪われ、何度も何度もやめようと思ったこともあった。だが、「ここで簡単に諦めてしまったらコービーのファンとして恥ずかしい」という気持ちで踏ん張り、なんとか3年間やりきることができた。

この頃のレイカーズは成績が低迷していた。
シャックと決別して以降は勝ち星が伸ばせなくなり、BSでレイカーズ戦が放送される回数も激減したことから僕もコービーのことを追えなくなっていた。当時はまだインターネットが充実していなかったので、HOOP・ダンクシュートの記事や他の試合が放送された時のハイライト等で結果を知ることが大半だったが、その中でもいつもコービーの姿を追っていた。チームの成績は下がっていて、自分の周りからレイカーズファンが減っていっても、久しぶりにコービーのプレイする姿を見ては元気をもらい、勇気付けられた。相変わらずコービーは僕のヒーローだった。

現役時代部活漬けだった反動で高校3年生のときは遊びまわっていて、その結果受験に失敗して僕は浪人した。
浪人している間は猛勉強し、一切NBAを観ることはなかった。特にこのときは「どうせ今レイカーズ弱いし、勝てないコービー観るの嫌だし」と思って完全にシャットアウトしていた。

浪人の時に猛勉強したのは、バスケ部で3年間ずっと補欠だったのが悔しかったからだ。
バスケでも結果を出せず、勉強でも同じだったら、そんなのかっこ悪いよなあ。と思ってのことだったが、今思うとこのストイックさはコービーをずっと追って来て身についたものだと感じている。浪人時代は1日も欠かさず毎日15時間勉強し続けた。結果、晴れて第一志望の大学に合格することができた。

 

大学時代

大学に入ってからもバスケは続けていたが、残念ながら1、2年生の頃に住んでいた下宿先がBSが映らず、浪人時代に続きこの2年間はほとんどと言っていいほどNBAが観られなかった。コービーが81得点したことも、サンズとの死闘を繰り広げたのも全部事後で知り、観たのもハイライトだけだった。この頃は正直NBA熱が少し冷めていた。

留学を挟み、大学3・4年の間はNBAを存分に楽しんだ。リーグパスは契約していなかったが、新しい下宿先がBSが映るところで、更に当時はパウが加入したレイカーズは再度注目を集め、試合が放送される頻度も多くなっていたからだ。
この頃に、初めてLAへ行き、レイカーズの試合を観に行った。もちろん目当てはコービー、席は遠かったけど、しっかりそのプレイを拝むことができて心の底から感激したのを覚えている。中学生の頃からのヒーローが目の前に(遠いけど)というので興奮しきりだった。

 

 

社会人以降

社会人になってからの4年間は、とにかく地獄のような日々だった。
毎日猛烈なパワハラを受け、職場に行けばゴミのような扱いをされ、少しでもミスをすれば恫喝され。僻地に配属されたこともあり、周りに同期や年の近い先輩はおらず、頼れる人もいなかった。何度も何度も退職しようと思うくらい辛かったが、そんなときにも心の支えになったのはコービーだった。2連覇後にタイトルを逃し、その後は無理が祟ってアキレス腱を断裂する大怪我を負っていたが、何度挫折しても絶対に諦めないあの姿に心を打たれてしょうがなかった。優勝できなくたって、怪我をしたって、コービーは絶対に諦めない。また、あのファイナルの場に帰ってくる。そう思うと、自分がこんな小さなストレスで悩んでるのがバカらしく感じられて、不屈の闘志を心に誓った。コービーの挫折に比べたらこんなのはまだまだだと。
そして、そのままパワハラに4年間なんとか耐えきり、無事転勤することに。

 

新天地での生活にも馴染んで来た頃、コービーがそのシーズン限りで引退することを知る。

これはそれほど衝撃ではなかった。
ここ数年のコービーのプレイを観ているとどうしても衰えが目立っていたし、覚悟はしていた。
むしろ、Farewellをこんな早いタイミングで発表して、今シーズンレイカーズは捨てたようなもんだな、ちょっと迷惑だな、とすら感じていた。まだこの時はリーグパスは契約していなかったが、Youtubeで10分程度のハイライトを観るのが日課になっていて、コービーが各地の選手とファンにお別れをする様子をしんみり見守っていた。

そして、気づけばコービーのキャリア最終戦。場所はホームのステイプルズセンター、相手はユタジャズ。
この試合は当時のリーグパスの粋な計らいで、無料で観戦することができた(確か)。
仕事の昼休憩でふとそのことを思い出し、試合を観た僕は衝撃を受けた。

ジャックニコルソンが大はしゃぎしている。ベンチもファンも飛び跳ねてお祭り騒ぎだ。一体何が起きてるんだろう。
コービーが映し出される。目に飛び込んだのは”Points 51”の文字。信じられなかった。せいぜい20点くらいとって、しんみりしたフェードアウトになるのが関の山だと思っていた。

プレーが続く。次々にクラッチの3Pやミドルを決めるコービー。最高に湧くステイプルズセンター。
全くもって信じられなかった。僕は夢でも見ているんだろうか。これは紛れもなく僕が少年だったあの日に観たヒーロー、コービーブライアントだ。何があっても絶対に諦めず、クラッチショットでチームを救い、ファンに勇気と希望を与えてくれるあのコービーだ。僕は涙が止まらなかった。コービーのフェアウェルを疎ましくすら感じていた自分を心の底から恥じた。コービーは最後までコービーだった。

コービーの最後の勇姿が脳裏に焼き付いたまま離れず、その日はロクに仕事にならなくて早退した。こんなことを言うと御都合主義的ではあるが、コービーのファンであることを心の底から誇りに感じていた。

 

コービーの引退後にはなってしまったが、リーグパスを契約し、TwitterのNBAアカウントも開設した。
これまでの100倍以上NBAの情報を得ることができるようになったわけだが、そこで改めてコービーの色んな側面を知ることができた。シャックとはすっかり仲良しになっていること、引退後も現役の選手とワークアウトしていること、子沢山で娘が何人もいること、娘のバスケコーチをしていること。人間味のある裏話を聞けば聞くほど、バスケットボールプレイヤーとしてだけではなく、僕はコービーブライアントという人間の大ファンだということを改めて自覚することになった。

 

夢を叶えるべく南極へ

僕の趣味は海外を旅することだが、いつか絶対叶えたい夢の一つが南極へ行くことだった。
時間的にも金銭的にも途方に暮れるほどのコストがかかるのでずっと叶わぬまま諦観していたところだったが、千載一遇のチャンスが訪れ、at any costで南極行きを決意した。仕事的にはキャリアを捨てて、金銭的にも貯金を大きく取り崩して、興味がない人からすれば酔狂すぎる人生の浪費だったと思う。でも、僕は自分の夢を叶えたかった。

この夢は、コービーとの出会いがなければ成し遂げられなかったし、そもそも夢にすらならなかったと思う。
コービーのプレイや言葉から勇気と希望をもらい、不屈の闘志を持って努力し続けることの大切さを学び、夢を叶えることの素晴らしさを知った。コービーと出会ってから20年間、僕の人生のどこかに常にコービーがいた。時に支え、励まし、慰めてくれた。そんなコービーに恩返しというわけじゃないんだけど、「コービーのおかげで夢を叶えることができたよ!」と伝えたいと思うようになった。旅のパッキングをしている時、僕はコービーのジャージをスーツケースに押し込んだ。

 

 


 

コービーの死を知った翌日、僕は夢を叶えて南極大陸に上陸した。

 

 

僕にはぼんやりと考えていた別の夢があった。
それは自分が60歳くらいになったら、コービーに直接会いに行くということだ。

スーパースターもおじいさんになれば会えるハードルが下がるだろうから、という安易な考えからだが、いつかコービーと話す機会があったら「日本からずっと応援してたんだよ。コービーの勇姿にいつも元気付けられてたんだよ。ありがとう。」って伝えられたらいいなあって。その日を夢見て、日々一生懸命生きていこうと思っていた。

でも、それももう叶わない。
たった1日、たった1日遅かっただけでコービーにメッセージを届けられなかった。
この旅の1番の目的は自分の夢を叶えてコービーに感謝の気持ちを伝えることだったのに。
今後の人生で自分がどれだけ頑張ってもコービーには二度と会えない。

 

南極への旅が終わった後は、南米大陸を北上していって、最後はLAに立ち寄る予定だったけどコロナウィルスの影響でNBAも中止になり、結局LAには行かないことにした。

LAに行かないことを決めて、ホッとしている自分がいることに気がづいた。
まだ心の整理ができていなかったからだと思う。
LAに行ってしまったら、コービーが亡くなった現実を受け止めなければいけない。
コービーにお別れを言わなければいけない。
それにはまだ早すぎた。
コービーならきっと「そんなことで立ち止まるな、前へ進め」って言うんだろうなと思うけど、どうしても無理だった。

 

先日コービーが亡くなってから半年が経った。

すっかり僕は日常を取り戻し、旅も終えて新しい仕事を始めて、毎日忙殺されながら過ごしている。あんなに辛い思いをして立ち直れないと思っていたあの日が嘘のようだ。

僕には新しい夢ができた。
「LAに行って、コービーにお別れを言う」と言うことだ。

正直今もまだ、LAに行く心の準備はできていない。コロナで海外渡航できなく良かったと思っているくらいだ。
だけど、いつか。本当にお別れをする準備ができたら、コービーに会いに行くよ。
僕が一人前の人間になるまで、何かを成し遂げるまで、そしていつか夢を叶えるまで、
今まで通り、コービーのファンとして恥ずかしくないよう、精一杯生きていこうと思う。

これからも僕はずっとレイカーズファンだ。
そして、パープル&ゴールド「8」と「24」の背中は生涯忘れることはないだろう。
レイカーズファンであること、そしてコービーブライアントのファンであることを、心の底から誇りに思う。

僕はこれからもコービーと共に生きて行く。
いつかまた、コービーブライアントに会えるその日まで。

 

R.I.P Kobe&Gigi

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